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眞田丸掲示板
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佐吉
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楠七郎さまこんにちは。 真田幸村を検索しておりましてこちらのHPを 拝見させて頂きました。 宜しければ相互リンクお願い出来ませんでしょうか?
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Date: 2011/05/22/12:44:32
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楠七郎@管理人
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佐吉様、こんばんは。
眞田丸管理人の楠七郎です。 このたびはありがとうございます。 相互リンクの件は、了解いたしました。
後日になりますが、近々更新させていただきます。 よろしくお願いします。
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Date: 2011/05/22/23:01:03
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楠七郎@管理人
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弘化二年(1845)年、大坂細見圖。
御城とあるのは、今の大阪城です。 画像の上が北の方角になります。
画像の中央の赤色は玉造稲荷神社。
画像の下部にある、「サナダ山イナリ」とあるのは、今の三光神社の場所と思います。 「サイショウ山」は今の陸軍墓地のあたりでしょう。 「心カンシ」とあるのは、心眼寺でしょう。 「真田山」とあるのは、今の大阪明星学園か。
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Date: 2011/04/18/09:56:44
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楠七郎@管理人
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もういっちょう。
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Date: 2011/04/18/09:57:59
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アンチウィキペディア
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田原家私有林墓石(鹿児島県南九州市頴娃町牧ノ内の雪丸地区) 真田幸村は、大阪の陣のあと、島津の軍船で鹿児島に逃れ、谷山(今の鹿児島市谷山地区)に上陸した。鹿児島では、真田幸村は芦塚左衛門と名乗ったが、現地の者は、真田幸村を芦塚大左衛門、その子・真田大助幸昌を芦塚中左衛門、孫を芦塚小左衛門と呼んでいた。
その後、豊臣秀頼を谷山においたまま、尾根伝いに揖宿郡頴娃村(今の南九州市頴娃町)に潜入し、(牧ノ内)雪丸に居を構え住んだ。その名残として墓が立てられた。牧ノ内の雪丸地区にある真田幸村の墓には何の刻印もない。 真田幸村は、頴娃村摺木の百姓娘との間に隠し子をもうけたが、徳川幕府の追及を逃れるため、その娘を(別府)大川の浦人に嫁がせた。生まれた子は瓢左衛門と名づけられ、その子孫は、幕末になって、名字帯刀を許され、真江田姓を称した。別府の大川地区にある真江田家や難波家の墓には六文銭が刻まれている。
揖宿郡山川町(現在は指宿市の一部となっている)では、秀頼が御用金を運び込んで、どこかに埋めているという噂が広がった。為衛門という者が、この御用金をずっと探し続けていて、幸村の墓の横も穴を掘ったが、何も出てこなかった。このため、幸村の墓の横に穴を掘った跡がある。 また、真田十勇士が流行っていた大正時代、多くの学者や研究者が度々訪れており、この人たちが、ここにきた印として、小石を一つずつ置いていった。このため、真田幸村の墓に無数の小石が置かれている。
お篭もり堂(長崎県南島原市西有家町見岳) 長男・大助幸昌(別名・幸綱。鹿児島では芦塚中左衛門と名乗った)は、豊臣秀頼の子・天草四郎時貞(豊貞ともいう。別名・豊臣秀綱)を総大将に立て、キリシタンの大騒動を巻き起こした。島原半島では芦塚十左衛門と呼ばれた。この後、大助の子孫を「中の家」というようになり、その子孫である山田芦塚家の墓が雲仙市吾妻町牧之内にある。
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Date: 2011/03/01/02:49:35
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アンチウィキペディア
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故・眞田博明・真田六文会会長は、平成のはじめころ、鹿児島県頴娃町を訪ねたとき、薩摩落ちした真田幸村の末裔である真江田幸一に「真田大助の行方は分からないか」と聞いた。これに対し、真江田幸一は「分からない」と答えた。眞田博明氏の意思を継ぎ、「真田大助幸昌」の行方について、諸説を吟味したが、いずれの説も信憑性がなかった。島津幸久説は、名前は似ているが、年代が合わない。江戸の旗本・八木氏説は、「堺にいた」という点で、徳川幕府の捜査が厳しいのに、幕府の役人に見つからないことなどはありえない。秋田県大館市説は、騙りによる捏造としか言いようがない。
「真田大助幸昌」の行方について、有力な情報が得られないまま、時が過ぎていった。眞田博明氏は2005年に亡くなったが、同氏の死後、2006年、「真田幸村の墓 島原半島に?」のホームページ作成者が、事前に「薩摩落ちした真田幸村の末裔」の作者のところに原稿と写真を送ってきた。これまでの真田大助幸昌の行方はいずれも当時の状況を考えると無理があったが、「真田幸村の墓 島原半島に?」は、「真田幸村の薩摩落ち」の記録とも符合しており、最も無理がない。
「真田幸村の墓 島原半島に?」を真田幸昌に関して要約すると、次のとおりである。「南島原市西有家町」の「お篭もり堂」に「真田幸村の墓」(推定)がある。鹿児島では「芦塚中左衛門」と呼ばれていた眞田幸昌は、島原では「芦塚十左衛門」と間違って呼ばれていた。その子孫は「中の家」(山田芦塚家)という隠語で呼ばれていたが、なぜ「中の家」と呼ばれているのかは島原の研究者にも分からなかった。薩摩落ちしたとき、眞田信繁(真田幸村)は芦塚左衛門と名乗ったことから、現地の者は、「眞田信繁(真田幸村)」とその子や孫を区別するため、「眞田信繁(真田幸村)」を「芦塚大左衛門」、その子・「眞田大助幸昌」を「芦塚中左衛門」、その孫を「芦塚小左衛門」と呼んでいた。その後、眞田大助幸昌は島原半島に渡った。島原では「芦塚十左衛門」と誤って呼ばれたものの、鹿児島における芦塚中左衛門の名からその子孫を「中の家」と呼ぶようになったと推察される。眞田大助幸昌の子孫と思われる山田芦塚家の墓は雲仙旧山田村牧之内にある。
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Date: 2011/03/01/02:47:31
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楠七郎@管理人
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大坂夏の陣の徳川家康が逃げてきたという伝承があるそうです。
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Date: 2011/02/10/15:24:51
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